本質美

鉄質と鍛法(てつしつとたんぽう)

 日本刀の造法をごく簡単にいえば、先ず良質の砂鉄を吹きおろして造った精良なる鋼を素材とし、それを折返し鍛錬という世界に比類のない鍛法によって精錬すると同時に、何回も折り返した層の組織、すなわち鍛肌によって物理的にも強靱な性質となったものを、打延ばして造形を整え、焼刃入れを終ってなかごを仕上げ、最後に研磨をほどこして、なかごに銘を切って完成するのであり、砂鉄の吹きおろしにも折返し鍛錬にも出来るだけ低温度なることが好条件であったと思われる。また古名刀の作者はその多くが砂鉄から焼入れまで一貫した作業であったらしく、研磨も殆んど刀匠自身の仕事であったことが、立派な芸術品を造り得た要因と考えられるのである。

 鉄質の優秀性とは、焼刃入れに対して感度の高い生きた鋼質のことであり、鍛法は鋼質を鍛えころさぬように靱性を附与することが大切で、その優劣は鍛肌によって観察される。鍛肌は杢目にしても板目にしても柾目にしても、あるいはその大小・粗密にしても、鍛着の肌に隙間なく残滓なく、密実に接着した上品な肌をあらわすものがよいのである。

 優秀な鉄質・鍛法は造形・焼刃入れの技術によってその優れた性能を見事に発揮して日本刀の生きた本質美を完成しているのである。

匂(におい)

 日本刀には必ず焼刃がある。焼刃の形を刃文という。刃文の縁を光線にすかして見ると白い線が境界線となっている。しかも、この線が焼出しから切先まで続いている。この白い線のことを普通匂と云い、匂口とも匂筋ともいう。初心者にも一目瞭然である。だから刃文とはこの白線で描かれた焼刃の文様のことである。直刃・乱刃・五の目乱・小五の目・のたれ刃・箱乱・丁子刃・丁子乱・逆丁子・五の目丁子・片落五の目丁子・蛙子丁子・袋丁子・箱丁子・大房丁子・重花丁子・二重刃・飛焼・五の目足・小足・鼠足・丁子足・逆足・網状の足等、すべての名称は肉眼に見た形状によってついた名で、便宜上の名称だから確定的な深い意味はないのである。また一般に匂が深いとか浅いとかいうのも見る人の主観による。

沸(にえ)

 刃文をよく見ると芥子粒大のつぶつぶが肉眼に見え、銀砂のように白く丸く光る。これを沸という。ごく細かい焼入組織の粒子である。この沸が少し幅広い匂口と一緒になって、極端に言うと銀河のように出来た刃を沸出来という。沸足・沸こごり・湯走り・地沸等の名称も沸の集まった状態によって付けられた便宜上の名で大して深い意味はない。が、この沸が匂の下敷のうすいところにあれば、玉のような感じでなく露骨な下品な光沢となる。これをはだか沸といって嫌う。鉄質の良くない刀や再刃ものに多い(再刃とは後世焼刃を入れ直したもののことである)。荒沸の質もこれに準ずる。

匂と沸の質(においとにえのしつ)

 上の匂と沸は冶金学上には「マルテンサイト」の組織といわれ、硬度の高い部分である。だから厳密にいえば匂筋は沸のごく細かい粒子が線状に集結した状態であって、本来同質のものである。なお、この沸匂が一層稠密にほとんど隙のない組織となったところが焼刃である。匂筋は匂出来でも沸出来でも刃部より沸匂がやや稀薄な状態だから硬度は一段低いのである。地部は更に稀薄になるから匂筋より一段硬度低く柔らか味がある。

地景(ちけい)

 これは冶金学上「トルースタイト」の焼入組織といわれる紫黒色の沸筋で、地部に微細な曲線状にあらわれる性質のものである。線状になるだけに粘りけが強く、刀の靱性はこの地景が根源である。硯にする端渓石に蟻脚青花というのがあるが、ちょうどそのように刀の肌にはたらくものである。また鉄色を青く深く見せるものが地景である。更にまた地景は刃部にも出来て、焼刃に粘りけを保たせ、刃中に長くあらわれれば俗に金筋と云い、状態によって稲妻などともいう。地景の観察は特に大切である。尚その色沢については研磨と関係が大きい。

地沸匂の観察(ぢにえにおいのかんさつ)

 さて以上で普通にいう匂と沸の説明は十分と思うが、本質美の鑑賞にはもう一段深い見方をしなければならない。すなわち、日本刀は焼刃入れ作業を経たものだから、地と刃に一応区別は出来ても実は刀全体が焼きの入った状態となっているのであって、刃部は完全な焼入組織であり、匂出来・沸出来ともに匂口は次等の硬度の焼入組織であり、更に地部全面もまた一段と硬度の低い焼入組織となっているのである。したがって、地部は匂沸のやや薄く弱く散在している状態ということになる訳だが、その実これを強い光線で精鑑すると、散在どころではなくて、殊に名刀の地部は一面雪の銀世界のように小沸匂の厚い層となっていて、地と刃の密度の区別なども実は肉眼で見分けられぬほど地沸匂稠密な組織となっている。故に古名刀は刀身全体が優秀な地沸匂のかたまりだということになるのである。この地沸匂の観察が最も重要であることはいうまでもあるまい。すなわち、この地沸匂が日本刀のすべての美観の源泉であり、日本刀の美質の生命である。普通に見る匂とか沸とか地景とかいうものは、この地沸匂の中に肉眼に見易い状態に散在する現象にすぎない。

映り(うつり)

 古名刀の地部を光線にすかして見ると雲霞の如く白い光沢の景色が見える。これを映りという。よく見るとその形状によって棒映り・乱映り・影丁子・丁子映り・あるいは観点を変えて黒映り・地フ映り等の名称がつけられる。室町の刀などに単調な棒状に焼刃に並行して見えるものを棒映り、丁子刃の刀に丁子形に二重焼刃のようにあらわれれば影丁子、丁子乱のようにはたらけば丁子映りという。尚、福岡一文字の上位に丁子映りと丁子刃との間に特に紫黒色の清澄な光沢を強烈にあらわす景色を特に黒映りと言う。黒映りのあるものは普通の丁子映りより強い鉄質である。またこの黒映りが鮮明に一枚になって乱れて、地部を映りと黒映りとではっきり区分される状態を地フ映りという。張りつめた氷がとけて一部碧潭のあらわれた如く清冽深玄なる美観となり、古備前上位の最高美というべき景色である。

黒映りと地膚映り(くろうつりとぢふうつり)

 福岡一文字の映りは丁子映りのはたらきが重花の如く微妙な変化をあらわしている。その入り組んだ間隙に黒映りの強い光沢が紫紺色の澄みきった絶景をあらわす。その深玄な光沢の部分をよく精鑑すると、一段ともり上がっているものである。映りは地沸匂の濃密な状態であり、黒映りは地景の特に稠密な部分である。勿論地沸匂の方が地景より硬度は高いはずだが、黒映りは地景の繊維が重なり合って隙間がないから組織としては映りより密度が大で粘り強い。故に研磨による研ぎへりがかえって少ないのである。また、それだけ優秀な質の地景である。地フ映りも同様で、黒映りの面積が広いから、すばらしい威力と同時に幽遠にして崇高な美観となる。もし古備前上位の太刀が研ぎへって焼刃が近くなっても、この地フ映りの組織で截断の威力は相当強く残存することを疑わない。

地膚(ぢふ)

 古来の名称だが現今この美観を明確に見ている人は少ない。その理由は、近ごろの厚化粧の如きこき出し研によっては、殆んど観察不能となる微妙なはたらきであるからである。古人は地膚とも地斑とも書き伝えている。

 これは映りの内部に出来た地景と同質の「トルースタイト」の沸の多い組織をいう。古備前・古一文字であれば黒映りの部分が白映りの中に取り残された状態、青江にいう澄肌、福岡一文字には鎬地にこの傾向が多い。長光は、堤家の太刀の平地に焼出しから二股に分かれた映りが一方は刃に近く棒状の小丁子形をなし、一方は棟寄りに廻って乱映りとなり、その中間に相互に連絡する濃淡のはたらきの中にこの地フが清澄にして変化ある床しい美景をあらわしている。景光には杢目肌にかこまれた梨地状の地フが見事であり、美濃の兼元は堤家の長光に似てやや劣質ながら面白く映りの濃淡の中にあらわれる。新刀・新々刀には地フと称すべきはたらきはない。

映りと地景・地膚の美観(うつりとちけい・ぢふのびかん)

 古備前上位の映りは前述の地フ映りで、日本刀の最高美はこの地フ映りの幽妙味にあると思う。地部全面が清浄な地沸匂の層であるのに、その上に特に匂の濃密な映りが刃文を離れて平地に一面に拡がっており、鎬地まで同様である。この映りと刃部との間は紫黒色に澄んだ地景が緻密に充満して、映りの部分と明瞭に一線を画している。その境界線が、あるいは指頭状に、あるいは蛸坊主の如くに映りの部分に侵入して、天然味の幽遠な景色となり、前説の如く張詰めた氷の一部に碧潭を見るようなすばらしい景観である。地景は白光の映りの部分にも無数にはたらいているから青白に冴えた映りであり、紫黒色の部分はくす玉のような地景稠密の深く澄んだ肌である。その景色に沈んで精妙な鍛えの杢目肌が品位ゆかしくあらわれている。

 時代の上るものはこの地フ映りが腰部に大形にあらわれ、鎬筋を超えて鎬地まで侵入する勢いがあり、上部に従って刃に近接し、やや小形となって所々深く映りの中に湾入する。この傾向が正恒等の時代を決する見どころである。少し時代が下ると腰部に特に大形を現わすことなく、平均した形となり、清澄味が少し薄れる。しかし指頭形を間遠に連ねてあらわれた状景は人為の最高美とも感銘される美観である。元暦前後のものは形状が種々に変化してやや不明瞭になり、次第に丁子映りの様相となってあらわれる。平安末期には需要の関係もあってか鉄質・鍛法ともに若干劣勢を示すものが多い。

 御物鶴丸国永の映りは古備前ほどには地フ映りの形状は整わぬ風があるが、高貴な冴えを見せており、童子切安綱は紫紺の霞棚引く如く古蒼幽遠な味わいがある。

 福岡一文字は古備前より刃文が深く、したがって丁子映りが鎬を超えてはたらくもの多く、黒映りの強烈に澄んだはたらきが鎬地にまでその澄んだ丁子形を侵入せしめて見事である。上位は地フ映りに近い深玄味を保有し、下るものは次第に黒映りが薄れて丁子映り・重花の丁子映り等にはたらき、吉岡に下ると黒映りとして見るべき偉観が殆んどなくなる。紀助光・道誉一文字等の映りが明らかにこの様相を示している。福岡上位の黒映り優秀な作は古備前上位の地フ映りに迫る尊厳美を感ずるもので、にわかにその優劣は決し難い。

 古長船は刃文が一文字に比して小丁子・逆丁子・片落五の目丁子等、平均して深く地部に乱れ込むものが少なく、したがって地部の面積が広いから、丁子映りがその全景を平地にあらわす傾向あり、整然たる丁子形が刃文の影の如く現われたるものを影丁子と呼ぶ習慣があり、福岡一文字に比して丁子形を整然とあらわすのでかえって見易く、長光は古来映りの名人といわれている。黒映りは少々薄れてくるが、そのかわり地景がやや大形に鮮明に見え、長光・景光・兼光の地景の美観は古備前・一文字を凌ぐほど立派なものがある。また鍛肌も一文字には映り・地景をともなった杢目肌が銀髪線の如き光沢に渋くかがやく風情があるが、古長船は鮮明な地景の重なる鍛肌の潤いが絶景であり、山岡将軍をして「雨後の月光」にたとえて感嘆せしめた美観である。

 熱田神宮の則国太刀には地フ映りに似た一種乱映りの精妙なはたらきがあり、来国光には逆丁子の刃文の太刀に見事な丁子映りの出たものがあり、旧御物嘉暦二年の来国光太刀は形状の定まった映りではないが、地沸匂の生気あるはたらきと細密な地景に自然の妙趣が感じられる。

 南北朝の鉄質と刃文では目覚ましい丁子映り等は多く期待されぬが、兼光系の諸工には松皮肌にからむ地景のはたらきが優秀で、丁子映り・乱映り・棒映り等にいまだ鎌倉期の鉄質を失わぬ美観があり、また肌なりに出来た大形の地景・地フ等に古色ゆかしいはたらきがある。全般にこの時代に下ると鉄質がわずかに低下し、地景のはたらきが若干少なく、したがって鉄色に青味を減じ、刃文は若干剛くなるのである。

 応永の康光は南北朝期の松皮肌を平均した杢目肌にととのえたような風格のある鍛肌を示し、肌なりに出来た地景に明るい美観を生じ、細密な地景もその肌にからんで、長光の鉄質が少し緩んだ感じである。しかし実物を比較して見ると地沸匂の層がうすく、鍛肌がやや露出し、地景も少なく、映りも丁子形に整わず、質も少々弱く、この時代の他国の刀に比すれば長船正系の絶妙なはたらきとして品位も高いが、古長船の前に出ては南北朝を隔てた本質美の差を痛感するものである。今村長賀翁が康光を最高目標にせよと教えられたのは、多年研究の結果到達された卓見で、古名刀中康光までは一般の鑑識で理解の届くこの世の美観だからである。盛光・祐光等もこれに準ずる。

 則光・法光以下室町中期のものは応永肌を一層細美に鍛えた風はあるが、鉄質は次第に劣り、乱映り・棒映り等の冴え味が鈍くなる傾向を示し、地景も見るべきはたらきが乏しくなる。末備前は更に鉄質劣り、光沢に黒味を加え、映りは弱く、地景は殆んど品位の高い状態でない。

 応永以降備前系の刀は皆この傾向線上にあるが、新興の美濃の関七流のみは別様の趣を呈して刮目すべき美質を成就している。

 応永の初代兼則は青江風の刃文の太刀に一種精妙な乱映りのはたらきをあらわす作あり、二代に至って見事な大焼刃の作あり。映りは鎬筋を超えて多く棟に寄って生じ、その乱足が雨雲のように鎬筋から平地に垂下る風情あり、地景は至って細密にはたらき、鉄色青く澄む。中期の兼常には直刃に一種の棒映りが焼出しから噴出する勢いを示して刃に添って上昇し、幅広くゆたかに厚い層をなして鎬地まで一枚となって拡がっており、刃文との間は紫紺の光沢に澄んで古備前上位の地フ映りを連想させるほどの清澄さをあらわすものがある。細美な鍛肌には小形の地景が綿密にはたらいて靱強な冴え味を示し、応永以後の刀にこれほど見事な映りと地景は他に類を見ないのである。

 兼定(初代和泉守)は洗練味において長光にも比すべき優秀性を発揮し、小杢目あるいは小板目の肌に地景が細密にはたらいて鉄色青く、直刃仕立は兼常流の澄んだ豊麗な映りとなり、乱刃には兼則に似た乱映りの更に明白な形状が鎬筋を境に平地に垂下って出入する妙味があり、これまた永正の備前その他に類のない見事さである。

 兼元はやや大肌の流れ柾に杢目状にからむ地景のはたらきが格別見事であり、乱映りの部分に地フの沈んだ風情はまた独特の妙所である。天文を下ると漸く鉄質粗荒となり、映りも地景も昔日の面影は消滅に瀕する。

 新刀では明寿銘の忠吉刀に映りあり、国広は向井将監の短刀に棒映りが明瞭である。これより以降の作は、いわゆる新刀映りはあるが古刀の質と異なり、美観上からも映りと呼ぶ資格に疑問がある。新刀映りのあるものは主として備前伝と称するもので、江戸の石堂常光・大阪の多々良長幸・筑前信国重包・福岡石堂等、これ等は焼刃の乱頭から匂が噴出状に映りとなるもので、映りが刃部に直結する特徴がある。古名刀の映りは研労れたもの以外は刃文と映りと直結したものは殆んどない。また新刀映りは研磨に若干硬度差を感ずるものであるが、古名刀の映りは粘りけが強く、硬度差を感じない。尚新刀にも地景はあるが、多くは鍛肌によって切断されて延びがない。新刀の地景としては忠吉・虎徹・四郎衛門兼若等にやや良質のものを見る。

 新々刀・現代刀には故意に映りを焼いたものもあるが、浮薄な光沢で弱く、映りとしての本質ではない。地景は似たものはあるが弱く、黒鉛に近い劣質が多く、これまた古刀の美質に比較すれば地景の用をなさない。

山田 英 著 禅的鑑賞及び本質美にもとづく研究 より抜粋