研磨の正邪
日本刀の鑑賞には研磨の優秀なことが最も大切であって、刀を見るとは刀の研を見ることであると云うも過言でない。したがって研の正邪がわかる人は刀を正見している人である。刀の本質美を精鑑することを知らず観念的に目視の美をのみ逐う人は必然的に研磨も邪法を好むようになりがちである。
研磨は下地研と仕上とに分けられるが、下地研がよくて仕上の不良なることは先ず殆んどない。下地研は刀の生命に関する重要性があるのにこれを正確に見る人は極めて少ない。専門的にいえば下地研とは荒砥から内曇砥までの研磨のことである。これは刀の造込みの躾のようなもので、躾をよくするのが目的であるのにかえってそれを悪くし或は破壊する研師が多いから注意を要するのである。下地研の良否を知るには、先ず左右均等の光線を選び、刀を両眼の中間に真直ぐ前方に向け、刃先を上にして鎺元から切先迄正しく刃先の線が通っているかどうかを確かめる。熟練すれば刃先の線の僅かなひずみも一見して瞭然と判るようになる。次にそのままの状態で右眼にて右側の鎬筋を見、左眼にて左側の鎬筋を同時に見る。中途迄は一望に見えるが上部は少し切先を上げ加減にすれば見える。かくして多少上げ下げすれば元から先迄正確に目に入るのである。刃先の線と左右の鎬の三線が並行して夫々の位置を正しく保てば立派な造形であり確かな肉置きである。又刃を下に向けて棟を見れば、庵棟ならば三本の線が正しく並行していることを要し、同時に鎬を見れば鎬地のゆがみも共に明瞭に判るのである。この見方によって造込みが崩されていないかどうかをよく確かめなければならない。この見方で鎬の立ち方、肉置きの状態等を確認し、これ等の条件が正整であって更に切先の形、肉置きがその刀の姿形に調和していれば大過なき研磨というべきである。刃肉のつき方は反と身巾と鎬の高さによって定まるものであり、切先はこれ等の条件による全体の姿に調和した抜き差しならぬ自然の美形が備わるものである。
江戸時代に平安、鎌倉の太刀の切先が新刀風にふくらみをつけられたものが多いのは、研師と所有者との研究不足を示すものである。下地研にはその刀の原始の造形をよく研究して原始の造込みを崩さぬようにすることが最も大切である。又肉置きの非常にむずかしいことは人のよく知るところであるが、なかなか一朝一夕にそこまで徹見することは困難である。真に優秀な肉置きの妙趣を知るには多年精鑑して名刀の優れた肉置きの品位を悟るほかに良法はないのである。一般に鎬筋を押倒して平肉がついたなどと思う研師もあるから極めて慎重に研究しなければならない。
仕上は地刃の品位を落さぬことが肝要である。鍛肌を引き裂いたり沸を不必要に強く摩擦したりしたものは宜しくない。地部の仕上は地景の細密な組織を崩さぬことが第一条件である。地景が正常な状態で観察し得る仕上であれば映りも正当に現われている筈である。この地景と映りを見にくくするような仕上は当然宜しくないのである。刃部の仕上は刀を立てて見て匂口が見えるようでなければ宜しくない。明治以来後刃をとることが流行して、この頃は極端にこの法が行われているが、刃取りの真意を取り違えて、刃取りをしてかえって刃文を見えなくしてしまう仕上が多い。この傾向は刃を白く見せる目的のまちがった行過ぎであるが技術の未熟な証拠でもある。刀の鑑賞法を全然知らぬ人の中にはこれを美しいと見る向きもあるようだが、ここまで盲目であっては論外である。このような仕上の刀は白昼でも電燈をつけて刃文を探さねばならぬようなことになり、日本刀の品位を失墜すること甚だしい。
古名刀は人格清高なる名刀匠の卓抜な審美眼によって造られた極めて品位の高い美術品であるから、これを研ぎ減らす仕事が如何に容易ならぬ技術と慎重さを要するかを篤と深慮する必要がある。名刀を研磨するには名刀匠の境涯に劣らぬ高い識見を持った名研師でなければ不適任である。現今は古名刀のような最高位の貴重品が低劣なる識見を以て平然と取扱われるような時代である。故に研磨する方も研磨を依頼する方も極めて慎重に反省考慮して、古名刀を徒らに損耗させぬように心がけなければならないのである。実に昨今の研の様相は、あたら古名刀の美質を情け容赦もなく消滅させること昔日の比ではない。その惨状は大戦争の災害以上とも痛感されるのである。