なかごと銘並びに彫物について

中心(なかご)

 刃区・棟区以下柄に入る部分を「なかご」という。「中心」と書くだけあって用途は勿論、日本刀の造形美に重要な関係を持つ部分である。まずなかごの上に刀身が安定しなければならない。この点、平安・鎌倉の太刀は後世なかごの反りを伏せられたものが多いのは真に残念だが、拵の式の変遷によってやむを得ない。磨上も困るが今更致し方ない。それだけに生ぶの保存のものは造形美完存の意味で実に尊い。なかごの仕立ては「セン」で削って「ヤスリ」で仕上げるのが通例である。槌目仕立や「セン」で削りっぱなしのものも薙刀・槍などに見られる。なかごは原始の年代を伝える神聖なところで、その生ぶの地錆が大切である。素人考えでこすられたりしたものは取返しのつかぬ失敗ともなるから、慎重な扱いが望ましい。なかご保存の概念としては鉄鐔の保存とほぼ同様に考えてよいと思う。

 刀の見えぬ人はなかごの手入れがまずいのが通例である。明治以後は今村長賀翁ほど刀身は勿論なかご保存の上手な人はなかった。翁の所持刀は皆品位ある状態になっており、今日でも頭の下がるゆかしい自然の光沢になかごの年代を証する錆色が保たれている。それにひきかえ、他の諸大家のものはあまり感服せぬものが多い。すなわち長賀翁の鑑賞眼の行届いた高さを所蔵刀のなかごが証明しているようなものである。これを禅的にみれば刀と一体になって親身に扱ったということである。

 なかごの錆地は持つ人の人格・教養によって錆色の品格が変化する。近来特に注意しているが、幾多の実例によって諸大名家の宝物でも刀に理解の深かった藩のものは皆よく、それによってその藩の士風まで察知出来るのである。名器は小人に持たすべからずという、なかごにおいても至言である。千年の刀は千年のなかご錆が年代を証明するところに貴さがある。手入れといっても油をつけ過ぎたり拭き過ぎたものは時代のゆかしさが消えて、持主の下等な品性が表面に出る。近ごろの商人の手にしたものはそこが一目瞭然であって、それだけ嫌な気分が尊敬の念と興趣を減殺する。現今は真の愛刀家少なく、殆んどが商魂の人のみだから、商気に汚されたなかごの状態にしてしまうのが常である。それにもまして近頃の専門家は皆なかごの保存など考えておらぬように見受けられる。識者の猛省を願いたいところである。

 なかごの錆色は鉄鐔の色沢と同じく一振ごとに別情あり、刀身の鉄色と同じ感じの鉄色と見ることが出来る。故に時代的に大別すれば古備前・古一文字はほぼ同鉄色、鎌倉中期は少し異なり、末期と南北朝は大差なく、その良否は保存の如何による。室町には室町特有の鉄色があって新刀と異なり、新刀には室町のような潤いと粘りけが乏しい。新々刀は時代も若いし錆色が浮薄である。また、この鉄色を質で分類すれば、古名刀のなかごの地錆は紫黒色に澄んで深く雅致あり、中等の鉄質は黒味にやや濁りがあり、不良のものは赤茶けて渇く。また、なかごの鉄質はテコがねが多いはずとも考えられるが、実は案外そうでなく、たとえば長船に比較して関七流のなかごは鉄質が緻密で光沢に粘り強さを感じ、テコがねでも芯がねでもなさそうである。殊に永正以前のものは非常に強靱にして緻密な鉄質をその錆色にあらわし、初代兼定の如きは肥後鐔等に類して自然に鉄骨のはたらくものさえある。

 優秀な刀ほどなかご仕立の優秀なことはいうまでもない。関七流の伝書になかご仕立の慎重であったことが書かれている。宝徳系図の註に兼音の説として、なかごの棟も檜垣ヤスリに仕上げ、そのヤスリ目が至って細かいから年代がたつと判らなくなると云っている。たとえば丸棟についても、名匠の作はその丸味に名鐔の耳にも勝る品格がある。室町の他国もののなかごに比し、関七流正系のなかごは鉄質細かく仕立も優秀で、生きた錆色のものが多い。鷹羽ヤスリなどは一本一本に澄んだ力があって貴重である。故に近ごろ加工されたものなどは一見して見分けがつくものである。

 平安・鎌倉のものとなれば一層なかごにも美的価値が高い。その造形美は上身とまったく品位が一致するからである。したがって、その観察も地錆の状態とともに上身と同じく、肉置・刃棟と鎬の線等の優劣を兼ねて精鑑しなければ十分な美的鑑賞ではない。古来ヤスリ目についてやかましく云われるのも、切りとか斜とかいうことよりその一本一本の線の生き死に・品位等を見るのでなければ意味がない。その点、明治以来の観察はやや不十分だったきらいがあるから、向後はなかごも芸術品としての鑑賞が絶対に必要である。

 なかごの生ぶ孔は大切な見どころである。地錆とよく調和した孔の形・様相には雅味ゆたかな美観があり、その孔中の錆は後人の手の届かぬ天然の時代錆となっている。清浄にして幽邃な原始の錆だから尊敬せずして可ならんやである。ロクロ孔以前のものには特にこの感が深い。また、少し磨上げたなかごなどは生ぶ孔の位置によって銘の真偽を決する場合もあり得る。日光東照宮の助真太刀の銘などは、現在の位置がはなはだ疑問だが、その理由の一つは当然残るべき生ぶ孔が残っておらぬからである。また、磨上なかごの刀が生ぶ孔によって原始の姿形を推察されることは多くの人の知るところであり、ヤスリ目とともに慎重に観察したい。

銘(めい)

 日本刀の銘は遠く文武天皇の御世から刀匠の責任を明らかにするためのもので、源平二氏の勃興以来は一層刀匠の責任重大となったから、作者として作品に絶対の確信がなければ銘を切らなかったと思う。そのかわり銘をいれる段になれば必死の思いであったに相違ない。その態度は鍛刀の精進と同じであり、焼刃入れのときの気合に等しく必然的に真剣に切らざるを得ないからである。第二義的に考えても、刀が存在するかぎり銘はついてまわるから、末代までを思えばどうしても粗略に銘は切れない。まして真剣に精進して造った刀に画竜点睛の文字だから本気で切るのが当然であろう。名刀の銘は命がけの真剣な文字である。

 銘はいわゆる金石文字だが、書に対して上記のような態度は弘法大師の入木道の精神に根源的に一致するものである。全心身の気力をこめて一線一画を切り進む。切り終るまで気は抜けない。故に一点一点と打込んだタガネの跡が不連続の連続となって、書道の原理に叶った真美の線である。線とは点のつながりだから、こういう線が本当の生きた線である。書道論においても古来運筆の理念としてはこれを目標にしているのであるが、その実践としては非常な修行と境涯を要するところだから、筆技の修練のみを以てそこまで達した人は皆無に等しい。

 故に古来このような禅境に達した専門の書家はなくて、かえって宗教・武道等の奥義を極めた偉人、達人の書においてのみ、これを見るのである。たとえば弘法大師・伝教大師・大燈国師・一休禅師・宮本武蔵・白隠禅師・池大雅・山岡鉄舟等の書画において見る崇高な真の芸術であって、この気合相続の線が東洋哲学の極意を示すものであり、東洋芸術の真価の根本である。

 優秀な銘の線質を更に深く考察すれば、刀身全体を一線と見たその線とまったく同質の精神的内容を持った線である。この線を以て書かれた銘の文字は、その鑑賞価値の高さにおいて刀身の造形美と一致するものであり、更にその刀の本質美とも矛盾なく一致するものである。鍛刀の精進によって武徳に達した平安・鎌倉の巨匠の銘はこの見地に立って見れば書道芸術の粋であり、金石文字の最高価値に達したものである。古来の優秀な銘の文字をこの意味で精鑑徹底すれば、墨跡・禅画等は勿論東洋芸術全般に亘って鑑賞眼が開けることを確信する。そこを犬養木堂・山岡重厚両先哲が実証された。この故に銘の観察は本質美の観察と軽重あってはならんのである。以下各時代の銘を実物について略説する。

平安朝

 この時代の銘は前述の如く古備前上位並びに鶴丸国永・童子切安綱等、書道史上から見ても堂々たる古今第一級の文字である。なかでも上位の正恒(今村押形所載)は貫禄ある楷書の古体で、気宇雄大にして品位高く、日本刀の最高美を象徴した文字として極めて尊い。書道研究家が多くこれあることを知らないのは、旧幕時代なら致し方ないが現今は押形集・写真集等で知る機会があるはずにも拘わらず、今日一向問題になった話も聞かぬのはいかなるわけか諒解に苦しむ。ここに特筆して読者に紹介しておく。

 深尾家の正恒はわずかに行体の筆意を示し線強く澄み、六朝碑中の神品第一と称される爨竜顔碑に見る線と書品において勝るとも劣らぬ絶品である。しかも、この文字は碑板等に工人の彫ったものと異なり、前者も同様百錬の精鋼上に自ら切りつけた活文字であるために、その優質の美をもともなって比類のない美観を発揮しており、真に日本民族の至宝であると同時に書を志す者の至上目標となるものである。尚、この二振は今村押形巻の一に出ているから参照されたい。

鎌倉時代

 日枝神社の一文字太刀の銘をまず第一に挙げなければならぬ。生ぶなかご八百年の幽遠な地錆上に、悠然として一本の横棒が清く澄んだ鏨跡を完存し、鎌倉時代の最高品位を代表して優雅にして強く高貴である。山崎家旧蔵の吉房は、人間の力量の極致を見るような強さに加うるに抜群のはたらきと雅味を感ずる絶品である。黒田家伝来の長光は明治以来、山路将軍・山岡将軍に伝承され初代唯一の正真銘として確信無類のものであるが、特にその長の字の書品は古今随一というも過賞と思わない。空海・最澄の筆意に唐の楮・欧の骨格をかねた高風あり、鎌倉武士の武徳を最高に伝える文字として感銘が深い。二代長光はこの書体に似て楮・欧の正風を一層加えた楷書であり、景光・兼光はほとんど唐賢の筆跡を思わせる正整の楷体にして品位がある。

南北朝

 長船長義の銘に暢達の筆意を見、左兵衛尉秀光には小楷の整いに抜群のものがあって、その中に雅味と力量を見事に示す。末期には山内容堂公の康光の二字銘が気品高く擢んでている。

室町時代

 備前は上の康光流の字体にほぼ統一され、長禄の法光に雅風を見る等、個性の特色は諸作それぞれにあるが、大勢は多く規矩を離れぬ一様の楷書に芸術的興趣は時代とともに漸減してくる。一方、関七流の銘を見ると、魚兼と呼ばれるこの派独特の兼の字が、よく見れば一人一人微妙に異なった体を得て、あたかも兼字百態の観を呈し、殊に兼貞(久阿)、兼岸などは線強く澄むところに一休禅師の墨跡にも類する特色あり、兼則は福岡の吉房にも似た抜群の気合に全力量を提示して潔く、竹中半兵衛の兼常は線清く澄んで字体整い、気品高くして君子の風あり、兼定(初代和泉守)は禅境の枢機を得て渋く冴えて、向上のはたらきを微妙にあらわすところに脱俗自由の高風を見る。まこ六兼元は線に生動の肉あり、孫七兼元は骨格生整の美体を示す。これ等は長船諸侯に比していずれも線強く澄み、字体がいかにも自由である。

江戸時代

 初期の明寿は光悦に迫る能書にして品あり、国広・忠吉は漸く俗書に向う兆ありと雖も、それも前述の古刀期の諸名作に比しての話で、忠吉晩年の自身銘といわれる武蔵大掾藤原忠広の文字は境涯高く、禅家の力量を思わせる底力のある渋い線が見事である。虎徹は晩年に及ぶほど線質の澄むところに修練向上の足跡を示して立派だが、兼定の禅境に比較すればいまだ門前の小僧といわなければならない。助広は近衛流の草書に達筆を思わせ、真改は正格の楷書に用筆の冴えを見せるが、いずれも現世の塵芥を離れぬ巧者の境地である。幕末の清麿は境涯は若いが線清く澄む方であり、固山宗次・石堂是一等はまじめな職人として風格ある方で、当時楷書をこれまでに書き得た人は武人にも多くはなかったろう。直胤には奇を弄する風が露骨に過ぎ、左行秀も奇抜な大銘が腕力の所作の域を出ない。

 以上各時代の銘について最小限度に要約列記したが、詳しくは写真集・押形集等について一々点検していただきたい。その点近ごろは刀剣書が大洪水の如く、択法眼さえあれば参考書物に不自由のない時代である。尚、関七流諸工の銘については、拙著「日本刀 関七流」を参照されたい。

彫物(ほりもの)

 日本刀に樋を彫ることは非常に古くから行なわれ、古備前大包平の樋は実に非凡である。久能山の真恒にも立派な樋がある。本来の目的は刀身を軽くするためだったと思うが、斬撃の際に空気の抵抗があるから本当はない方がよい。殊に後世は装飾的な傾向もあるようで、そうなってはいよいよ面白くない。見方によっては樋は大疵ということにもなる。また造形上から考察すれば、樋で軽くする分だけ棟重ねを落した方が理に叶うわけだが、造る立場からはその方がかえって至難な仕事かも知れない。

 樋は手持を軽くするという実用上の意味があるから理由も立つが、他の色々な彫刻は研師の立場から見れば、正に大疵に等しい。殊に深い彫刻は刀身を弱くする。美観上には貴重な本質美を削り落すことになり、研に当っては周囲の肉が落ち易く、また手入れにも至って厄介である。好肉をえぐって大疵をつけるようなものだから彫らぬにこしたことはない。然るに古来彫刻を好む人が多いのは、刀身と彫刻と同時に鑑賞できるという欲の深い見方によると思う。その実、刀は造形において已に完全な一個の彫刻品となっている。刀の造込み自体が最も高級な彫刻である。その上何も加えぬ方が純粋の美を鑑賞されてよいわけで、立派な造形に更に彫刻を添えることは蛇足である。たとえ信仰等によるものであっても、刀自体が清浄法身なのだから加工を弄して俗化させる必要はない。

 上記のような理念に間違いはないと思うが、さて立派な刀に彫られた彫刻には他の彫刻品に見られないすばらしさがある。そのわけは地沸匂のはたらく生きた美質が素材となった彫刻だからである。こんな立派な素材を使った彫刻が他にあることを知らない。しばらく厳密な意味の日本刀を棚上げして、彫刻の美観を訪ねて見るのもまた一興ではあるまいか。敢えて蛇足を添えるゆえんである。
 平安期の太刀には樋はあるが、まだ他の彫刻はないようである。山本家の友成には樋の腰部に素剣の浮彫があるが、どうも後彫の疑いが濃い。包平・真恒の樋は実に立派であんな見事な樋は後世のものにめったに見られない。殊に包平の浅く彫って力のあるところは絶妙である。真恒は重ねが非常に厚いから樋が深いのも当然と思う。

鵜首造り短刀
銘 備州長船住景光
建武元年七月日(1334年)

 鎌倉時代には、初期に豊後行平の独特の彫刻がある。腰元のえたいの知れぬ深い彫は有名である。一種雅味を持って締まって力あり、奈良・平安の仏教美術を見るような感じで幽遠な年代を思わせる。福岡一文字には樋以外の彫を見ず。長光に下ると草体の倶利迦羅が蜂須賀家旧蔵の太刀に見られ、頗る達者な彫である。景光は小竜の名の如く見事な真の倶利迦羅が鎬地に樋中に彫られている。松江景光の鍬形付剣は天下一品の力と品位がある。今村兼光は樋も勝れているし、浮彫にした八幡大菩薩の文字も尊厳味を兼ねた抜群の美観である。新藤五国光には素剣の彫に見事なものがあり品位が高い。名物大典太の樋は浅く太く、力とゆかしさがある。

 南北朝には二荒山神社の倫光の大太刀に豪快な草体の倶利迦羅があり、ほかにも古長船伝来の彫刻法が見られるが、時代が時代だけに濃密なものはあまり多くはない。

 室町に下ると盛光には彫刻を施したものが多く、樋はほとんど通例となり、梵字等を添えるものが多い。京の信国は何か彫らぬものは殆んどなく、剣の形に特色がある。中期には勝光等に濃厚な竜の彫等が多く見られ、相州系には草体の倶利迦羅が多い。美濃系には彫刻は少ないが、鞍馬関には密実な竜の彫もあるという。この時代は諸国の作に何か彫らねば気のすまぬような傾向さえ見える。あるいは彫刻によって数打物と区別したようなことがあったのかも知れない。

 概して古刀の彫は締まって品があり、ゆかしさがある。近ごろは彫の浅くなったものを彫り足したりするが、これは明らかに邪道である。自然に研ぎへった折角のゆかしさを破壊してまずい彫を加えたら、後彫と同様になってそれこそ大疵である。

 江戸時代随一の埋忠明寿の彫は、旧来の手法に金工系の繊巧を加えた精妙無比のもので、タガネの行届いたすきっとしたところに前人未踏の境地がある。竜の鱗に写実味を出し、爪の線がいかにも美しい。不動の彫は儀軌をおさえて思いきった躍動感をあらわしている。精巧という点では金工第一人者の好技を示し、優美さにおいては桃山美術中一頭地を抜くところがある。江戸時代の彫を通観してこれほど気品と洗練美の勝れたものはない。

 国広は明寿に似ず大胆不敵の彫風に特色あり、大形の彫刻に力のともなった様相は新刀中最高の貫禄を示す。明寿の繊巧に対して武骨の豪風を感じさせるもので、武士として刀匠として、幾多の苦修を乗越えてきた底力の発露かと思われる。肥前の忠吉一派には宗長彫あり、やはり明寿一門の彫風で、国広の独創的な力と異なり、埋忠系の手法に忠実な感じである。

 この時代の彫としては康継一派に奇抜なものがあり、大振りの短刀に三体彫などは至って有名だが、彫刻が第一義となって、刀は素材としての役割となり、本末転倒のきらいがないでもない。記内彫と称して珍重されるが、あまり奇を逐いすぎたものは折角だが嫌気も起る。また少しは研師の身にもなってもらいたい。大きな深い彫物をどうして余白の鉄質を生かして研上げられようか。刀の研磨でなく彫刻品の仕上げとなってしまう。そうならいっそ刀以外のものに彫ってもらいたい。

 南紀重国に表裏に竜を勇ましく彫った平造の小脇指があって非常に有名だが、なかごの棟に池田大作云々の銘があり、よく見ると一向品のない彫で名手の作と思われない。実は脇指自体が鉄質弱く、重国としては銘を信じかねるものである。彫を好む人もほどほどでないと下手物好きになるおそれがある。

 虎徹は樋中の風神雷神が目覚ましく、犬養木堂翁遺愛の脇指として有名だったが、今どこにあるかを知らない。一竿子忠綱は勢いのいい竜の密彫がさわがれるが、明寿の彫を見た眼には大人と子供ほどの相違がはっきりする。谷将軍旧蔵の雲竜を彫った刀は刀身が一竿子の最高作で、生気ある地鉄に鮮やかな直刃、彫がなければ尚よいとさえ思われる。

 新々刀は直胤の刀に義胤の彫が珍重される。不動・竜等皆上手だが、古いものに比較すると落着きがなくて、ただごちゃごちゃした浅薄な感じが印象に残るものである。名人義胤の彫でさえそうなのだから、明治になって月山貞一の彫などはいかに上手に彫られても研師の眼には少々玩具の感じがないでもない。上手な仕事と鑑賞価値とはちがうのである。失礼ながらそれ以下の人達の彫刻は皆大疵と見た方が手っ取り早い。昭和になって高橋・笠間両刀匠などは盛んに彫をして生計を立てたようだが、古人の作にまで彫られては困るのである。

 近ごろ古名刀の樋先を直すことが当然のことのように行われるが、戦前、平井千葉師が盛んに直させて研いだ余風で、真に困りものである。当然研ぎへって形が小さく浅くなっておるべき樋先が、物打・小鎬の重ねと正反対に生ぶの状態以上の太さ・深さとなり、拭ってみると指先が陥没していやな感じとなっている。造形もかまわずこんな幼稚な加工をされてはたまらない。初心者と雖も審美眼さえあれば、こんな矛盾した樋のあるものは尊重するはずがない。今村押形を見ると高綱や長光の樋先に特に力ありと註がしてある。まちがって深く太い樋先を力と見られては困るが、長賀翁の着眼はさすがに偉い。
 犬養木堂翁が健全保存の古刀を持参して、無疵を自慢に長賀翁に見せたところ、だまって大きな樋を指さしたという逸話がある。また山岡将軍が、新々刀の地鉄はどうも所持する気持が起らないと言われるので、それなら新々刀の彫身はどうですかと聞いたら、新々刀でも精鍛の地鉄はそれなりに尊敬すべき美質だから、これに彫物をすることは不賛成、といわれたことを時々思い出すのである。

山田 英 著 禅的鑑賞及び本質美にもとづく研究 より抜粋